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先日書いたTEDの記事、『父の最後の日々から得た教訓(TED)』の感想をいただきました。返信を希望されていたので、この記事で返信します。
はじめに、TEDの記事を読んでいない方のために、トークの要約を書きます。
父の最後の日々から得た教訓
・作家のローレル・ブレイトマンさんは南カリフォルニアのユダヤ人家庭に生まれた。父は外科医、母は農場を運営
・ローレルが3歳のとき、父親は42歳で骨癌を発症、余命を宣告されるが生き延びる。しかし、ブレイトマンさんが11歳のときに再発する
・転移を続けるがんと戦いながら父親は死を意識する。家族のためにいろいろなものを準備し、子供たちには生きる術を教えた
・ローレルは16歳のとき、進路に関して父と電話で口論し、さよならも、愛しているとも言わずに電話を切ってしまうが、その直後、父親が亡くなった
・彼女はずっとこのことを後悔する
・父の死後、ローレルは「自分は父親の電話を勝手に切るような悪い人間ではない」と思い込みたいがために、猛烈に学業やキャリアでの成功を追い求め、燃え尽きる
・新しい生き方を模索中、子供たちのグリープサポートのボランティアをしたとき、自分を責める必要はないことに気づく
・父の死後、火事で家を失い、母親も病気で失った体験から、ローレルは、人生には痛みと喜びが共存することを知る
・生きることには痛みが伴うがそれは人生の一部。生き続ける限り、つらいことも受け入れるべきだと聴衆に訴える
ではミナさんからいただいたお便りをシェアします。
私の人生は姉の犠牲の上にあるのでは?
件名:「父の最後の日々から得た教訓(TED)」ありがとうございました。
ミナと申します。
数年前から、時折のぞいて拝読しております。
noteマガジンも拝読し始めました。
今回の「父の最後の日々から得た教訓(TED)」は、まるで私のためにあるような内容です。
ありがとうございます。
姉の死
数年前に癌で亡くなった姉の死に罪悪感を持っており、それ以降、混乱状態にあり心身が不安定で、ものが増えました。人生そのものも散らかってしまいました。
ものでいうと、以前にはなかった浪費や、ものをなかなか処分できなくなったことや、家事が億劫になったことなどで。
以前は、買い物には慎重で気にいるものがなければ何年も探し、必要なものと気に入ったものとで生活していたのに。夫にも友人にも「物が少ないね」とよく言われていました。
実家は、父は無責任で母は支配的な息苦しい家でした。
私はそこから、10代後半で1人だけ逃れて自分の人生を生きていたけれど、姉はそうはせず、結婚していた数年間を除いて、実家で両親と共に暮らしていました。
姉は、祖母(父方)、伯母(母の姉)、父の介護もし、実家では頼りにされていました。私は姉のおかげで、実家との関わりを減らすことができていました。
それと同時に、姉は離婚後から軽度の統合失調症を患っていました。
きょうだい差別が激しかったので、仲良くはありませんでした。(お気に入りの娘は母の都合で入れ替わるのです。)
でも、不幸になれと思ったことは一度もありません。関わるとこじれてしまうので、私からは遠い場所で、姉の人生を歩んで欲しいと願っていました。
両親が亡くなったら、姉は自分の人生が歩めると信じていました。
そうしたら、もう少し、ちゃんと話ができるのではという希望も抱いていました。
でも、母よりも姉が先に亡くなりました。
永遠にそんな日は来ません。
姉の願いを優先しなかった
姉と私とで告知を受けたときに、「なんで母じゃなくで姉なの? 母が死ねばいいのに」と思いました。
隣で「ホスピスで」と言っていた姉のつぶやきよりも、「1年を目指してがんばりましょう」と治療を勧めた医師の言葉に、私は従ってしまいました。
姉が「もうダメだと思う」と電話で自分の葬式の話をし始めた時も、受け入れられずに怒ってしまい話を聞きませんでした。
その少し後に姉は急変して亡くなりました。飛行機の距離なので、ちゃんと会って話したのは、その電話よりも前のことです。お別れは言えていません。
姉は50代前半で亡くなりました。
自分だけが実家から逃げ出して、自分の人生を構築しようといていた。自分だけが幸せになろうとしていた。
姉の人生はなんだったのか。姉は幸せだったのだろうか。母親の発する毒に当たりすぎたせいで癌になったのでは?
同じ思考の渦の中にぐるぐると深く巻き込まれてしまうことが増えました。
姉の犠牲の上に自分の人生があるようで、気が狂いそうでした。
狂っていたかもしれません。
姉が相続するはずだった財産を受け継ぐ
私は10代後半で実家を出て、別の場所で暮らしているので、実家には姉がずっと住むはずでしたし、実家の財産も全て姉が相続する話になっていました。
しかし、母の死後は私が全て相続しました。一般家庭なので、大きな財産ではありませんが。
姉が受け継ぐはずだった財産なので私が受け取るべきではない、苦手だった母の最期に寄り添ったのだから報酬としてもらってもいいだろう、他に相続人がいないのだから他人が受け継ぐよりも血縁のある私が受け継いだほうがいいだろう、、などなど。
両方の気持ちが同時に存在し、混乱し、浪費を重ねてモノが増えました。
その後、徐々に回復し、浪費は収まり、実家の家財や雑多なものは仏壇を除いて、業者に処分してもらえました。
片付けの作業さえ、気が狂いそうだったので、自分を守るためにそうしました。
でも、実家そのものが処分できないままでいます。
適正な価格で売り出せば売れる物件です。
でも、踏ん切りがつかないのです。維持費も年に十数万円かかります。
少しずつ自分の人生を取り戻したい
まだ「姉は幸せだったのか?」「姉の犠牲の上に私の人生があるのでは?」「姉が受けつぐはずだった財産」そういう考えが消えません。
今回の「父の最後の日々から得た教訓(TED)」は、まるで私のためにあるような内容です。ほんとうにありがとうございます!
「生きるチャンスと引き換えに、痛み、喜び、楽しみ、悲しみを、しばしば同じときに受け取らなければならないことを認めます。これは生きるために必要な切符の料金です」。
考えてみれば、苦手だった母の最期を見届けることはできました。
これも「愛憎」と言えるような両極端な気持ちが同時に存在したり、「愛」と「憎」に大きく振れたりで、非常に混乱し疲弊する時間でした。
それでも、母の希望を叶えることはできました。「さようなら」も「ありがとう」も言えました。
姉のことがあったので、母の希望を叶えることができましたが、母に従うばかりだった姉の話(ホスピス、自分の葬式)は聞かなかったのに、いつも自分優先に見えた母の希望は実現した。
こんなことでいいんだろうか。
そんな思いも渦巻いています。
少しづつですが、自分の人生を取り戻していきます。ずっとそばで見守っていてくれる夫を大切にして。
本当にありがとうございます。
筆子ジャーナルとnote、お忙しいでしょうが、くれぐれもご自愛くださいませ。
お嬢さんのご健康とご多幸もお祈りいたします。
記事の更新、楽しみにしております。
筆子の返信
ミナさん、はじめまして。お便りありがとうございます。いつも、私の記事を読んでくださり、感謝いたします。
お姉さんの死に対する罪悪感の中で過ごしてきた日々は、本当につらかったと思います。
ただでさえ、家族を失うのはつらいですから。
お姉さんの死に続いて、お母さんの死もあったから、いろいろな思いが渦巻くのは当然でしょう。
でも、ミナさんが罪悪感や後悔を感じているのは、お姉さんに対する愛があるからですよね?
同じように、お姉さんも妹を愛していたし、ほかの家族にも愛があったから、実家で介護をがんばっていたのではないでしょうか?
ミナさんの人生がお姉さんの犠牲の上にあったかどうかという問いの答えはいくら考えても出ないので、私ならこういう自問はしません。
そもそもこれはすごく不毛な質問です。
その質問の答えが「イエス」だったとして、何かが変わるんでしょうか?
イエスなら、ミナさんはこれから自分を罰しながら生きるべきなのか?
質問の答えが「ノー」なら、みなさんは晴れて実家を売り、売ったお金でハッピーに暮らせるのか?
これからもミナさんは、何かの拍子に昔のことを思い出して、つらい思いをしながらも、幸せに暮らそうとし、実際幸せに暮らすでしょう。
それこそが、ブレイトマンさんが皆に伝えたいことです。
人生は完全にハッピーでもなければ、完全に真っ暗闇でもない。つらいことも楽しいこともあります。
ミナさんは、お姉さんとそんなに仲がよくなかったかもしれませんが、お姉さんなりに幸せに生きてほしいと願っていました。
それはお姉さんも同じで、ミナさんに幸せに生きてほしいと願っていたはずです。
ミナさんはそういうお姉さんに感謝をすればいいと思います。
もうお姉さんは生きていませんが、亡くなった人は、ほかの人の心の中で生き続けます。お姉さんに感謝しながら、ミナさんが自分のためになる選択をすることが一番の供養だと思います。
実家の処分に関しては、無理に急いですることもありません。
焦らず気持ちの整理をして、心が決まったときに売ればいいでしょう。
ミナさんは、一時期よりは気持ちが落ち着いてきたんですよね。
その調子で、ミナさんの人生が、少しずつ元に戻り、いずれは前よりよくなることを祈っています。
ご主人を大切にし、支え合いながら暮らしていってください。
毎日暑いですが、どうぞお元気でお過ごしください。
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人生には時にすごく残酷なことが起こりますが、それは人にはコントロールできないことです。
昔、運に関するトークを紹介しましたが、
人生において運が果たす役割とは?:バリー・シュワルツ(TED)
運がいいとか悪いとかは確かにあって、若くして病気で亡くなってしまうのはすごく運の悪いことです。
でも、それは、本人も含めて、誰かのせいでそうなるわけじゃありません。
死なずに今日も生きている自分はとても運がいいんです。
人が犠牲になってくれたから、自分が生きているわけではないと私は考えます。ただ、運がいいから生きています。
そもそも、人として生を受けて生まれてくることがとても運のいいことです。
せっかく持って生まれた運を自らこじらすようなことはしないほうがいいと思います。
では、あなたも、質問、感想、近況など、伝えたいことがありましたら、お気軽にメールください。
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