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毎日SNSやニュースを追って、速く読むことや、たくさん読むことに疲れている人におすすめのTEDトークを紹介します。
タイトルは、What reading slowly taught me about writing(ゆっくり読むことが教えてくれた、書くことの意味)。
児童文学の作家で、全米図書賞など数々の文学賞を受賞している Jacqueline Woodson(ジャクリーン・ウッドソン)さんのトークです。
物語は人を結び、歴史をつなぎ、人生を支える力を持っている。その力を最大限に受け取るには、立ち止まり、ゆっくり読むことが大切だと伝えています。
物語をゆっくり読む
収録は2019年の4月。動画の長さは約11分。英語をはじめ26カ国語の字幕がありますが、日本語はありません。動画のあとに抄訳を書きます。
◆トランスクリプトはこちら⇒Jacqueline Woodson: What reading slowly taught me about writing | TED Talk
◆TEDの説明はこちら⇒TEDの記事のまとめ(1)ミニマリスト的生き方の参考に
ポエティックで心に残るスピーチです。
わがままな大男の物語
昔むかし、あるところに身勝手な大男がいました。大男は国中で一番美しい庭を持っていました。
ある晩、大男が家に帰ると、庭でたくさんの子どもたちが遊んでいました。大男はとても怒り、「私の庭は私の庭だ!」と言い放ちました。
そして庭のまわりに高い壁を作ったのです。
これは、1888年にオスカー・ワイルドが書いた『わがままな大男』という物語です。
それからほぼ100年後、その大男はブルックリンで子供だった私の中に住みつき、今も心に残っています。
ゆっくり読む子ども
私は信仰心の篤い家庭で育ち、聖書とコーランを読みながら育ちました。
読書する時間は、宗教書も娯楽の本も合わせて、テレビを見る時間をはるかに上回っていました。
ある日も、兄弟たちと私はアパートのどこかで丸くなって本を読んでいました。
たまに他の子たちをうらやましく思ったものです。
ニューヨークの夏の日、外では消火栓が開放され、勢いよく水が吹き出し、友達が遊ぶ声が窓から聞こえてきたからです。
でも私は、本の世界に深く入り込み、一文一文に時間をかければかけるほど、外の騒音が耳に入らなくなることを学びました。
兄弟たちが速く本を読むのとは違って、私はすごくゆっくり読みました。文字の下を指でなぞりながら読む子どもでした。
速く読めと急かされた日々
そのうち、「大きな子は指を使わないのよ」と教えられ、この読み方をやめざるを得ませんでした。
3年生になると、机の上に手をきちんと組んで置き、ページをめくるときだけ手をほどき、すぐにまた戻すように指導されました。
先生は意地悪をしたわけではありません。
当時は1970年代で、先生には、私たちに学年相応の読む力を身につけさせ、さらにその上を目指すという目標がありました。
私たちはいつも「もっと速く読みなさい」と急かされていました。
繰り返し読んだから見えたもの
けれども、アパートの静かな部屋で、先生の目が届かない場所では、私は文字の下を指でなぞりながら読み続けました。
するとわがままな大男がまた語りかけてくるのです。
子どもたちが庭に忍び込んだとき、裏切られたと感じたこと。子どもを追い出すために高い壁を築いたこと。確かにそれで子どもたちは入れなくなったけれど、灰色の冬が庭をおおい、居座り続けてしまったことを。
読み返すたびに私は新しいことに気づきました。
庭を追い出された子どもたちが、固い石だらけの道で遊ぶしかなかったこと。ある日現れた小さな男の子の優しさ、そして、大男自身についても。
もしかすると、大男の言葉にあったのは怒りではなかったかもしれない。それは「共感してほしい」「理解してほしい」という願いだったのかもしれません。
「私の庭は、私の庭だ。」
フィクションの夢に入る
その何年も後に、ジョン・ガードナーという作家が「虚構の夢(fictive dream)」または、「フィクションの夢(dream of fiction)」と呼んだコンセプトを知りました。
私は、わがままな大男の夢を読んでいたとき、まさにその状態にあったのです。
著者が作った世界に、登場人物が私を招き入れ、物語の中の人たちやその世界と一緒に時間を過ごしていたのです
私は子どもでしたが、すでに知っていました。物語は味わうためにあること、物語はゆっくり読まれることを望んでいること、そして作者はその物語を書くために何か月、もしかしたら何年もかけていることをわかっていたのです。
読者としての私の役目は、とりわけ、いつか作家になりたいと願っていた読者としての私の役目は、その物語を敬意をもって受けとめることでした。
物語は最古のテクノロジー
ケーブルテレビも、インターネットも、電話も存在するずっと昔から、人々は物語を通して、考えや情報や記憶を分かち合ってきました。
物語は、私たち人類が最初に持ったつながる技術のひとつです。
ナイル川の下流にもっといい土地がある。この物語が、エジプト人を川に沿って移動させました。死者を保存するよりいい方法がある。この物語が、ツタンカーメン王の遺体を21世紀まで運んできました。
200万年以上前、最初の人類が石を使って道具をつくり始めたとき、誰かがこう言ったはずです。「こうしたらどうなるかな?」と。別の誰かがこの物語を覚えていました。
それが言葉であれ、身振りであれ、絵であれ、物語は受け継がれ、記憶されました。ハンマーを打てば、その音に物語が宿っていたのです。
速さを求める時代に
世界はますます騒がしくなっています。
ブームボックスからウォークマン、ポータブルCDプレーヤー、iPod、そして今や、聴きたいときにどんな曲でも聴ける時代へと変わりました。
私の子ども時代にあったテレビの4つのチャンネルは、今は、ケーブルやストリーミングによる無限に思える選択肢へと拡大しました。
テクノロジーによって、私たちが時間や空間の中でどんどん速く移動するにつれ、物語が脇に押しやられているように思えます。文字どおり、物語が物語から押し出されています。
でも、私たちの物語との関わり方が変わって、本からオーディオへ、Instagram、Snapchatへと姿を変えても、指を文字の下に置くことを忘れてはいけません。
それでも私はゆっくり読む
どんな形式であれ、物語はいつでも、私たちを思いもよらなかった場所へ連れて行き、出会うはずのなかった人と引き合わせ、見逃していたかもしれない世界を見せてくれます。
だから、技術がどんどんスピードアップするこの時代に、私はむしろ、物語はゆっくり読めばよいと思います。
文字の下に指を置いて読むという習慣が、私をすべての年代の人に向けた本を書く人生へ導いてくれました。それは、ゆっくり読み、味わうことを願って書かれた本です。
世界を深く、じっくりと見つめ、自分自身をそこに丸ごと投じること。
そうやって物語が持つ無数の可能性を見出すことに対する私の愛は、実は大きな贈り物でした。なぜなら、時間をかけることが、書くために必要なすべてを私に教えてくれたからです。
書くことはまた、人が見られ、声を届けられる世界、人々の経験が正当に認められる世界をつくるすべてを私に教えてくれました。
私の物語が、誰かに読まれ、あるいは聞かれ、その人の中に何かを芽生えさせ、それが私とつながり、つまり会話になる。そんな世界です。
物語が人をつなぐ
結局、大事なのはここではないでしょうか。
この世界でひとりぼっちではないと感じられる方法を見つけること。そして、この世を去る前に「自分が何かを変えられた」と思える方法を見つけること。
石からハンマーへ、人からミイラへ、アイデアから物語へ。そのすべては、記憶されてきたのです。私たちはときに未来を理解するために読み、ときに過去を理解するために読みます。
私たちは、その世界に入り込むために読むことがあります。今生きているつらい時代を忘れるために読むこともあります。
また、もっと困難な時代を生き抜いた先人たちを思い出すために読むのです。私が本を書くのも、同じ理由です。
読み書きが許されなかった祖先
ブルックリンに来る前、私の家族はサウスカロライナ州グリーンビルにあるニコルタウンという分離された地域に住んでいました。
そこにいた私たちは皆、読み書きを学ぶことを許されなかった人々の子孫でした。
想像してみてください。文字が言葉になる仕組みを理解することの危険さ。言葉そのものが持つ危険さ。読み書きができる人々と彼らの物語がもたらす危険さを。
けれども、物語を持ち続けることによって死に脅かされるという背景の中でも、私たちの物語は決して死にませんでした。
なぜなら、その物語の下には、さらにもうひとつの物語があったからです。そしてこれは、ずっと昔からそうでした。
物語はずっと続く
人がコミュニケーションを取るようになって以来、物語には常に層がありました。物語の下にはまた別の物語があり、さらにその下にも物語がある。こうして物語は生き延び、これからも続いていきます。
私が、自分が書くことや読むことを学んだ方法と、声を奪われかけた人々とを結びつけて考え始めたとき、気づいたことがあります。
自分の物語は、私自身よりもずっと大きく、ずっと古く、ずっと深いものであり、だからこそ物語はこれからも続いていくのだと。
声をほとんど奪われた人々の中には、生涯読み方を学ばなかった人もいました。けれども彼らの子孫は、奴隷制から解放されて数世代が経ち、経済的に恵まれていれば大学や大学院へと進んでいきました。
私の祖母や兄弟姉妹のように、生まれながらに読む力を持っているように見える人もいました。
まるで歴史が彼らの前から退いて道を開けたかのように。そして母のように、「大移動」と呼ばれた北部への移住の流れに乗って、南部に別れを告げた人もいました。
歌や笑いに込められた物語
けれども、その物語の中にさらにもう一つの物語があります。
故郷を離れた人も、そこに残った人も、みな物語の歴史を携えていました。
書き記すことだけが物語を残す方法ではないことをよく知っていたのです。長い一日の終わりに玄関先や階段に座り、子どもたちにゆっくりと語り聞かせることができると。
綿を摘み、タバコを収穫する灼熱の中で、歌として物語を響かせることもできました。
説教として物語を語り、キルトに縫い込むこともできました。
もっとも苦しい物語を笑い話に変え、その笑いを通じて、何度も何度も彼らの身体と魂と物語を奪おうとした国の歴史を吐き出すことができたのです。
ゆっくり読むことをやめない
だから私は、子どものころ、見えない指が私を言葉から言葉へ、文から文へ、無知から理解へと導いてくれるのを想像するようになりました。
テクノロジーがますます速度を上げていく中で、私は今もゆっくりと読み続けています。作者の仕事と物語の持つ永続的な力に敬意を払うために。
私はゆっくり読みます。
騒音をかき消し、私よりも前に生きてきた人々、たぶん最初に火を操ることを覚え、その炎と光と熱の新しい力を囲んで語り合った人々を思い出すために。
私はゆっくり読みます。
わがままな大男が最後にはその壁を壊し、子どもたちを庭に自由に走り回らせたことを思い出すために。
私はゆっくり読みます。
読み書きを許されなかった祖先たちに敬意を払うために。彼らもまた、火を囲んで夢や希望や未来を小さな声で語り合っていたに違いありません。
私たちが読むたび、書くたび、物語を語るたびに、その円の中に踏み入り、その円は途切れることなく続いていきます。物語の力は生き続けるのです。
//// 抄訳ここまで ////
『わがままな大男』が収録されているオスカー・ワイルドの童話集です。
ジャクリーン・ウッドソンの自伝的な作品
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あえてゆっくり本を読む習慣
スピードが重視される現代だが、物語はあえてゆっくり読むべきだ。そう教えてくれるプレゼンを紹介しました。
速く読むと筋を追うことが目的になりがちです。
実際、今、「速読術」を身に着けたいと思う人は多いのですが、それは情報過多の時代に、たくさんの情報を効率よく処理したいという気持ちがあるからでしょう。
本をまるごと読まず、サマリーを読んですませようとする人もたくさんいます。
しかし、ゆっくり読むと、もっと深い体験ができます。言葉の響きやニュアンス、言葉選びや物語そのものに込められた書き手の意図を感じとることは、消費することではなく体験することです。
サマリーだけ読んでいては、深い感動は得られません。
スピードを落とせば、その物語に込められた感情に気づき、読書体験がもっと豊かになります。
ゆっくり読むことは、シンプルライフを実践する私たちにとっても重要なことだと思います。
スピードに流されるのではなく、自分のペースで丁寧に本を読むと、心が静まり、日々の暮らしに余裕が生まれます。
気持ちがざわざわしているときは、あえてゆっくり本を読んでみてください。
自分を取り戻すきっかけになります。そしてその本は、単なる情報ではなく、人生をともにする物語になるでしょう。