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充実した人生を送るヒントになるTEDの動画を紹介しています。今回は、ニューヨーク・タイムズのコラムニストでありコメンテーターの、デイヴィッド・ブルックスさんのプレゼンです。
タイトルは Should you live for your résumé … or your eulogy?(あなたは履歴書のために生きるべきか、それとも追悼文のために生きるべきか?)
邦題は「人生の集約は、履歴書と追悼文のどちらに?」です。
「人生の集約は、履歴書と追悼文のどちらに?」TEDの説明
Within each of us are two selves, suggests David Brooks in this meditative short talk: the self who craves success, who builds a résumé, and the self who seeks connection, community, love — the values that make for a great eulogy. (Joseph Soloveitchik has called these selves “Adam I” and “Adam II.”) Brooks asks: Can we balance these two selves?
私たちは、2人の自己を持っていると、デイヴィッド・ブルックスは、短いけれど考えさせられるプレゼンの中で語っています。
一人は成功を求める自分で、履歴書で語られる自分です。もう一人は、社会的つながりや愛を求める自分であり、追悼文で語られる自分です。(ジョーゼフ・ソロヴェイチクに選れば、アダム1とアダム2)
ブルックスは、この2つの自己のバランスを取ることができないだろうか、と問いかけています。
追悼文(eulogy)は人が亡くなったときに、その人をたたえて言う言葉や演説です。語源はギリシャ語の「ほめ言葉」で、良いことしか言いません。
履歴書にも特技や資格などいいことを書くのですが、追悼文で語られていることと微妙に内容が違います。同じ人間のことを全く別の角度から話すわけです。
ブルックスさんは、今の社会は履歴書寄りすぎるので、追悼文方面にももう少し目をむけるべきではないか、と話しています。
動画は5分。日本語字幕です。5分なので見ていただきたいと思いますが、抄訳を動画のあとにつけます。字幕なしや、英語字幕にしたいときはプレイヤーを調節してください。
☆トランスクリプトはこちら⇒David Brooks: Should you live for your résumé … or your eulogy? | TED Talk | TED.com
☆TEDの説明はこちら⇒TEDの記事のまとめ(1)ミニマリスト的生き方の参考に
履歴書に出てくる徳と追悼文の中の徳
最近、履歴書の中の「徳(virtues)」と追悼文の中の「徳」についてよく考えています。
履歴書に書いてあるスキルなどは、市場向けのもの。追悼文で語られる徳はもっと本質的な自分です。
人とどんなふうにかかわったのか、勇敢だったのか、愛のある人だったのか、頼りになる人だったのか、軸がぶれてなかったのか、といったことです。
私を含め、ほとんどの人は、追悼文の中で語られることのほうが大事だと言いますよね。ところが、私の場合、ふだん、追悼文の中に出てくる「徳」についてよく考えているかというと、違うんです。
自分の中にいる2人の自己
ジョーゼフ・ソロヴェイチクというラビが1965年に “The Lonely Man Of Faith” (信仰を持つ孤独な男)という本を書いていますが、この本にこうした2人の自己が出てきます。アダム1とアダム2です。
アダム1はこんな人
世俗的で、野心家、私たちの外向きの側面。会社を作ったり、何かを発明したい、世界を征服したい、業績をあげるのが好き。物事の仕組みを知りたい。モットーは「成功」。
アダム2はこんな人
私たちの謙虚な側面。良いことをしたい、善でありたいと願っている。神、創造、可能性など、内面を大事に思っている。自分の使命を知りたいと思っているし、世界に奉仕したい。
内面の一貫性と強さを大切にする。なぜ私たちがここに存在するのか知りたい。モットーは「愛と贖罪(しょくざい)と回帰」。
2人の自己は常に戦っている
ソロヴェイチクはアダム1とアダム2は常に戦っていると書いています。外的な成功と、内的な価値観がせめぎあう中で、私たちは暮しているのです。
この2つの徳は、違う論理で動いているのが難しいところです。
外的自分のロジックは、経済的なロジックです。インプットがアウトプットを導き、リスクが報酬をもたらす、という考え方。
内的自分のロジックは、モラルを大切にするもので、外的自分の考え方とはしばしば逆に動きます。
何かを得るためには、与える必要があるし、強くなるためには、自らを捨てる必要があります。欲望に打ち勝たねばなりません。
自分らしくあるために、自分を忘れる必要があり、自分を見つけるためには、自分をなきものにする必要があるのです。
現代社会で優先されるのはアダム1(社会的成功を求める自己)
我々は、アダム1が大事にされる社会に生きていて、アダム2のことを無視しがちです。そのため、人は如才ない生き物になってしまいます。
人生をゲームだと思い、冷たくて打算的な人間になります。理想と現実は違うんだ、と考える月並みな人になってしまうのです。
自分の追悼文で言ってもらいたいような人間になることはできないわけです。
信念のない浅い人間になってしまいます。感情に乏しく、生涯かけて取り組んでもまだ足りないような仕事にコミットすることもないのです。
どうやってアダム2(深みのある人間)をつくり上げるか?
自分の歴史をふりかえることで、アダム2を作り上げる、つまり深みのある人間になれると思います。
自分自身の過去、時には子供の頃にあったことを思い出してみるのです。
自分が恥ずかしい思いをした時、罪を犯してしまった時、身勝手なことをした時、怠慢だったとき、浅はかだった時、怒りや自己憐憫の気持ちに負けたとき、人を喜ばそうとだけしていた時、勇気がなかった時。
アダム1は自分の強さをもとに築かれます。しかしアダム2は自分が自らの弱さと戦うことで生まれるのです。
自己に向き合い、これまでの人生で、自分が犯してきた罪に気づき、苦しみながらその罪と戦い、もうそんなことはしないようにすることで、人格の深みは作られるのです。
この社会では、私たちは、自分自身の罪を認めるようことは教わりません。どうやって罪に向き合い、戦って、打ち勝つのか、教わらないのです。
今の文化では、アダム1のメンタリティーが大事であり、アダム2はないがしろにされています。
社会的成功と精神性のバランスをとるには?
アダム1とアダム2の両方をバランスよく生きる人生に関して、ラインホールド・ニーバーが語っている言葉を紹介します。
“Nothing that is worth doing can be achieved in our lifetime; therefore we must be saved by hope.
Nothing which is true or beautiful or good makes complete sense in any immediate context of history; therefore we must be saved by faith.
Nothing we do, however virtuous, can be accomplished alone; therefore we must be saved by love.
No virtuous act is quite as virtuous from the standpoint of our friend or foe as it is from our standpoint. Therefore we must be saved by the final form of love which is forgiveness.”
やるべき価値のあることで、一生のうちに成し遂げられることなど何もない。だから、私たちは希望に救われるのだ。
歴史の中で、すぐにそのとおりだと道理が通る、真実、美しいこと、善いことなど何もない。だから私たちは信仰によって救われるのだ。
どんなに徳の高いことでも、私たちがやることが、それだけで完成することはない。だから私たちは、愛によって救われるのだ。
自分の立場から見て、どんなに徳のあることでも、友達や敵の目から見ても、やはり徳がある、ということなんて何もない。だからこそ、私たちは、究極の愛である、赦し(ゆるし)によって救われるのだ。
—- 抄訳ここまで —-
ジョーゼフ・ソロヴェイチク(1903-1993)はアメリカの正統派(ユダヤ教)のラビ。ラビはユダヤ教の聖職者。
ラインホールド・ニーバー(1892-1971)はアメリカの自由主義神学者
人が本当に幸せを感じるのはアダム2を生きたとき
先週、幸せになる12の方法。お金や物では幸福になれません という記事で、幸せが続く12の行動習慣を紹介しました。
その中の11番は、信仰心やスピリチャリティを持つ、というものでしたが、アダム2を生きることは、スピリチャリティを持つことだと思います。
つまり精神的なことを大事にする生き方です。
社会的な成功を求める、アダム1の生き方は、物資的な物を求める生き方に通じます。
社会的に成功すると、栄誉なども手に入りますが、その栄誉は、本当の自分を知らない人から与えられるものです。家族を犠牲にして成功すれば、家族からは嫌われるし、何より自分自身が満たされないでしょう。
アダム1とアダム2で、どちらが本当の自分かと言ったら、やはりアダム2です。本当の自分は自分の弱さを知っています。
だから、多くの人は、お葬式では、「この人は会社をいくつも作り、すごく社会的に貢献しました」と言われるよりも、「どんなに忙しくても、子供の運動会には必ず来て、観覧席の真ん前で応援するやさしいパパでした」と言われるほうに価値を感じるのです。
追悼文で言ってもらいたいことを追求すれば幸せに近づける
スティーブン・R・コヴィー博士の「7つの習慣」には、自分の葬式で人に言ってもらいたい言葉が自分の価値観を示している、と書いてあります。
お葬式ではたいていの人が、「いい人でした」「やさしい人でした」と言われたいと思うでしょう。
亡くなる前に、自分の人生を振り返って、
●年収1000万円になれなくて残念だった。
●ベンツに乗れなくて残念だった。
●もっと靴を買い集めたかった。
●最新流行の服を買えなくて残念だった。
●もっとフィギアやおたくグッズを集めて収納したかった。
●もっといろいろな化粧品を試したかった。
●もっと大きな家に住みたかった。
●もっと長時間働きたかった。
なんてことを後悔する人は少ないのではないでしょうか?
それなのに、生きている間は、なぜかそっち方面をがんばって追求してしまうのです。
不思議ですね。
なぜか、自分が本当に求めていることを追求しないのです。「子供とたっぷり遊ぶやさしいパパ」よりも、「昇進して、よりお金を稼げるサラリーマン」になろうとしてしまいます。
これは、「物があったほうがより幸せなんだ」という価値観が色濃い社会に生きているからではないでしょうか?
物をたくさん集めるためにはお金がいりますから。
ですが、そればかりを追求してしまうと、アダム1ばかりが強化され、真の幸せをもたらすはずのアダム2は、後回しになってしまうのです。
今、「なんだかわからないけど不幸だ」「息苦しい」と感じている人は、アダム2を大事にする生き方にシフトすればいいのだと思います。
そのためには、動画にあったように、自分の弱さと向き合うこと、それから「物がたくさんあったほうが幸せだ」という価値観を捨てることが有効です。
ことはそんなに単純にはいかないかもしれませんが、すべては自分の考え方次第です。