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「いい人」であることに執着しすぎて、人は失敗から学べない、と伝えるTEDの動画を紹介します。
タイトルは、How to Let Go of Being a “Good” Person — And Become a Better Person(いい人になるのをやめて、もっといい人になる方法)
邦題:「いい人」をやめて「もっといい人」になる方法
社会心理学者のDolly Chugh(ドリー・チュー)さんの講演です。
いい人になるのをやめる:TEDの説明
What if your attachment to being a “good” person is holding you back from actually becoming a better person? In this accessible talk, social psychologist Dolly Chugh explains the puzzling psychology of ethical behavior — like why it’s hard to spot your biases and acknowledge mistakes — and shows how the path to becoming better starts with owning your mistakes. “In every other part of our lives, we give ourselves room to grow — except in this one, where it matters most,” Chugh says.
いい人であることに執着するから、実際によりいい人になることができていないとしたら?
この親しみやすいトークで、社会心理学者のドリー・チューは、倫理的な行動の困惑させる心理 — たとえば、なぜ、自分の偏見を見つけたり、失敗を認めたりするのが難しいのか — について説明し、間違いを受け入れて、よりよいスタートができる道筋を見せてくれます。
「人生のほかのことでは、私たちは、成長する余地を自分に与えています。いい人になるというもっとも重要なことを除いては」。こう、チューは話します。
収録は2018年の10月、動画の長さは12分、英語字幕も日本語字幕もあります。
☆TEDの説明はこちら⇒TEDの記事のまとめ(1)ミニマリスト的生き方の参考に
☆トランスクリプトはこちら⇒Dolly Chugh: How to let go of being a "good" person — and become a better person | TED Talk
見ても、よくわからなかった、という人のために、今回は、「プレゼンのまとめ」を最後のほうに書いています。
「いい人だね」と言われるとうれしい
友達が、空港にタクシーで行ったさい、運転手と世間話をして、運転手から、「あなたは本当にいい人だってわかりますよ」と、真面目な顔で言われたそうです。
「いい人と言われて本当にうれしかったの」。こう友達は私に言いました。
「いい人ですね」と言われて、うれしいのは彼女だけではありません。
私は社会科学者で、「いい人」の心理を研究しています。
この分野の研究によれば、たくさんの人が、自分がいい人であると思いたいし、そういうふうに見られたいと感じています。
「いい人」というアイデンティティ
「いい人」の定義は人によって違いますが、「いい人である」という倫理的なアイデンティティは多くの人にとってとても大切なのです。
もし、誰かにこのアイデンティティを否定されそうになると、たとえば、経費をごまかしていると、冗談にせよ言われると、私たちは、そうではないことを証明するために、必死になります。
寄付したり、NGOのために何時間もボランティアをしたりして。
「いい人」とうアイデンティティを守るために、いろいろなことをするのです。
「いい人」であることは、とても重要だから。
「いい人」になることに執着すると
ですが、「いい人」でいることへ執着するあまり、「よりいい人」になる妨げをしている、と考えることはできないでしょうか?
「いい人」の定義の範囲がとても限定的だから、科学的に「いい人」になることは不可能だとしたら?
「よりいい人」になる方法は、「いい人」であろうとすることをやめることだとしたら?
人の心理に関する研究の説明から始めましょう。
限定合理性とは?
脳はたくさんのことをするために、よく「近道」をします。
人の精神的な働きは、自分の気づかないところで起きているのです。省エネモードで働くのと似ています。
これは、限定合理性の前提事項です。
限定合理性は、ノーベル賞を獲得したコンセプトで、人間の脳(意識)の記憶や処理能力は限られているから、脳はさまざまなことをするために、近道をするという考え方です。
ある科学者の推定によると、どの瞬間にも、人の脳には、1100万の情報が到達しています。
そのうち意識的に処理されるのは40の情報です。
自動的な行動
こんな体験をしたことはないですか?
職場で忙しく1日をすごし、車を運転して帰宅したとき、運転したことすら覚えていないことが。
信号がどうだったとか、何も覚えていなくて、気づいたら、家に帰っていた、なんてことです。
または、バターを取るため冷蔵庫を開けて、バターがどこにもない、ない、と思ったとき、実はずっと目の前にあったと気づいたことは?
いずれも、「ははは」と笑える瞬間ですが、脳が受け取っている1100万の情報から、40だけを意識的に処理しているから起こることです。
限定合理性の「限定」とは、こういうことを指します。
限定倫理性とは?
限定合理性のコンセプトをヒントにして、私は、ほかの2人の研究者と、限定倫理性というものを研究しました。
限定合理性と同じように、倫理的な行動をするときも、私たちは、何らかの形で制約を受けているので、近道に頼っています。
近道を取ることが、時々、人を惑わせます。
限定合理性のせいで、影響を受けるのは、スーパーで買うシリアルだったり、会議室で決める新製品です。
限定倫理性の影響は、次に誰を雇うか、どんな冗談を言うか、仕事上の決め事はどうするか、という判断に及びます。
無意識の偏見
職場で限定倫理性が働く例をあげましょう。
無意識の偏見は、限定倫理性が及ぼす影響の1つです。
これは、脳が情報を整理するためにとっている近道で、自分では気づかないうちにしているので、意識している信念と一致するわけではありません。
何百人ものデータを分析した研究によると、白人のアメリカ人の大半が、すばやく、簡単に関連づけることができるのは、「黒人」と「いいこと」の組み合わせよりも、「白人」と「いいこと」の組み合わせです。
男女とも、「女性」と「科学」という組み合わせより、「男性」と「科学」という組み合わせのほうを、即座に連想します。
この関連付けは、その人が、意識的に考えていることと、一致するわけではないのです。
ふだんは平等を大事にしている人でも、無意識に不平等な関連付けをすることがあります。
1100万の情報と40の情報の処理の方向が、一致しないのです。
相反する利益
もう1つ例をあげましょう。利益が相反するときです。
ボールペンや食事などちょっとした贈り物によって、自分の決断は影響を受けないと思いがちですが、実際は、かなり影響を受けます。
どんなに公平でプロフェッショナルであろうと努めても、無意識のうちに、脳が、贈り物をくれた人のものの見方を支持する情報を集めるのです。
「いい人」を保ちたいゆえの言い逃れ
「いい人」であろうとしても、人は失敗をします。時にその失敗が人を傷つけたり、不公平なことを助長したりしますね。
そんな時、私たちは、その失敗から学ぶのではなく、言い逃れをするものです。
私もそうです。
私の講義を受けている女子学生に、メールで、私が読むように指定している本や記事が、性差別を助長していると指摘されたとき。
クラスの学生2人を混同したときもそうです。この2人は、全然似ていないのに、人種が同じで、私はみなの前で、何度か混同しました。
このような失敗をすると、私は自分を守るためのレッドゾーン(かなり危険だと知らせる領域)に入ります。
「いい人」というアイデンティティを保つために、あれこれがんばるのです。
「いい人」だと感じさせる行動をする
限定倫理性の最新の研究で、人間は間違いをおかしやすいだけでなく、自分とレッドゾーンとの距離が、間違いの傾向に影響を与えると、私は主張しています。
自分がいい人であるというアイデンティティを疑うことはないので(つまり、自分はいい人に決まっていると思っているので)、自分の決断が倫理的にいいか、悪いかはさほど気にせず、その結果、だんだん倫理的な行動が減っていく、と研究でわかっています。
他人に「いい人」のアイデンティティを否定されたり、自分で否定したときは、自分の決断の倫理性に大きくライトがあたり、ますます、「いい人」のような行動をします。
もっと厳密に言うと、「いい人」のように自分に感じさせる行動をします。
これは、「いい人」の行動とは違いますね。
失敗から学ぶ余地がない
私たちは自分の中にある、倫理的な決断をするコンパスを過大評価しがちです。
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自分がいい人であるという思いが、自分の行動にどれだけ影響を与えているのか気づいていないのかもしれません。
「いい人」であるというアイデンティティを守るために、失敗から学んで、よりい人になる余地がありません。
たぶんそれは、いい人になるのは簡単だと思っているからでしょう。
私たちは、人は、「いい人」と「そうでない人」の2つにきれいに分かれると思っています。
完全であるか、そうでないか。人種差別者/性差別者/同性愛嫌悪者であるか、そうでないか、という2つしかないと考えています。
このように、二者択一の考え方をすると、成長する余地がありません。
ほかのことでは人は学んで成長する
ほかのことでは、人はちゃんと学んでいます。
簿記が必要なら簿記のクラスで学ぶし、育児をするときは、育児書を読みます。
専門家と話し、失敗から学び、知識をアップデートし、私たちは、よりよくなっていきます。
しかし、「いい人」であるということに関しては、特に努力や成長がなくても、自然にそうなると考えています。
「いい人」になるのはやめよう
「いい人」になるのは、忘れて、「いい人に近い人」という、もっと高い目標をもうけてはどうでしょうか?
「いい人に近い人」も、もちろん失敗をします。私は、「いい人に近い人」ですが、よく失敗します。しかし、失敗を認めて、そこから学ぼうとしています。
こうした失敗には代償が伴います。人種や偏見、多様性、包含性の問題で失敗したときは、実在する人間に害がありますが、私はそういうこともある、と受け入れています。
「いい人に近い人」になったら、自分の失敗に気づきやすくなりました。人に指摘される前に、失敗を見つける努力をしています。
ときには、とても恥ずかしいし、居心地が悪いものです。
完全に無防備になりますが、無防備になるから、私たちは、よりよくなろうとし、進歩するのです。
そこにあるのは成長です。
人生のほかのことと同じように、倫理的にも成長する余地を与えてはどうでしょうか?
もっとも重要な部分なのですから。
////抄訳ここまで////
単語の意味など
identity アイデンティティ、自分が自分であることを証明するもの。
bounded rationality 限定合理性:人の合理性は限定的だ(完全には合理的にはなれない)、というコンセプト。
たとえば、何かを決めるとき、人間はすべての情報をベースにすることはできず、手持ちの限られた情報をもとに決断します。時間の制約や自分の能力、判断力の制約もあります。
これは当然のことですが、人は、「制約の多い、不完全な状況のもとで決めたのだ」ということをしばしば見落としていて、「私は最高の決断をした」と思いがちです。
しかし、実際は、パーフェクトな決断など、いついかなる時もありえません。
either-or 二者択一の、白黒はっきりした
Dolly Chughさんの本です
成長に関するプレゼン
自分の能力を自分で見限ることの恐ろしさ、できると信じることの素晴らしさ(TED)
マインドセット(ものの見方)を変えて人生の流れを変えよう(TED)
上手になりたいと思っていることをきっちり上達させる方法(TED)
脳について知るべき、1つのこと。それは、あなたの人生を変えます(TED)
プレゼンのまとめ
限定合理性、倫理性、アイデンティティといった抽象名詞の理解は、日本人にはむずかしいですね。
ポイントは2つあると思います。
限定倫理性
・人間が、意識的に処理している情報はとても少ない(限定される)
・倫理的な決断も、意識的にしていると思っているが、実は、無意識に決めていることが多い
・無意識に決めることは、ふだん意識している信念とは、一致しないことが多々ある
「いい人」のわな
・私たちは、「いい人」であることがとても重要で、その状態を誰かに否定されたり、自分で疑問に思ったとき、「いい人」というステータスを守るための行動をする
・それは、いい人になるための行動ではなく、あくまで、いい人という体裁を守るためのものだ
・そうした行動は結果的に自分を今よりいい人にしない
・今よりいい人になるためには、「いい人ではない」と指摘されたり、疑問に感じたとき、その原因となる失敗を認め、そこから学ぶことだ
・ふだんから「いい人」でいようとがんばるのではなく、「いい人に近い人」という目標をもつといいだろう
無意識のパワー
人は、無意識にやっていることが多く、それは、ふだんの信念をもくつがえす、とドリーさんは言っていました。
まあ、この点については、このブログをいつも読んでいる人はよくご存知でしょう。
部屋をきれいにしたい、片付けたい、と思いながらも、まったく片付ける行動に出られない自分。
もういらない、邪魔だ、こんなものとっとと捨てたい、と思いながら、捨てようとすると、「もったいない」「また使える」と感じて、捨てない自分。
こういうことが起きるのは、「不用品を捨ててシンプルに暮らす私」は、自分が無意識に感じている自分のアイデンティティと一致していないからでしょう。
それだけ、無意識のパワーは強大なのです。
だからといって、意識的になるのが意味がないわけではありません。
むしろ最初は意識的に捨てながら、捨てる暮らしが、ごく自然にできる自分、何も考えなくてもシンプルに生きる自分になってしまえばいいのです。
車の運転や通勤・通学など、いつも自然に自動的にやっていることでも、初めてやったときは、必死に考えながら、あちこちの神経や筋肉の力の入れ具合を確かめつつ、行ったはずです。
これはすべてのことに言えます。
何かを食べることや、言葉をしゃべること、適切な排泄など、あたりまえにやっていることも、赤ちゃん時代に、時間をかけて習得したのです。
先日も記事に書きましたが、「部屋をきれいにしたい」と思うなら、「捨てられないんです」と四の五の言う前に、まず捨てることです。
先日の記事⇒物を捨てるのが大の苦手だ。そんな人にすすめる物の減らし方。
何度もやっているうちに、自動的に不用品を見つけ、さっと捨てる自分になります。