いい、悪いと簡単に決めつけられるほど人生は単純じゃない(TED)

TEDの動画

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何でも白黒つけたがり、すぐに決めつける傾向のある人に見てほしいTEDのプレゼンを紹介します。

タイトルは ”Good” and “bad” are incomplete stories we tell ourselves(「よい」と「悪い」は私達が自分に言い聞かせている不完全な物語)です。

プレゼンターは詩人でエッセイストの Heather Lanier(ヘザー・ラニエ)さん。Lanier は、レニエと読むかもしれません。

「よい」「悪い」と簡単には決められない:TEDの説明

Heather Lanier’s daughter Fiona has Wolf-Hirschhorn syndrome, a genetic condition that results in developmental delays — but that doesn’t make her tragic, angelic or any of the other stereotypes about kids like her.

In this talk about the beautiful, complicated, joyful and hard journey of raising a rare girl, Lanier questions our assumptions about what makes a life “good” or “bad,” challenging us to stop fixating on solutions for whatever we deem not normal, and instead to take life as it comes.

ヘザー・ラニエの娘、フィオナは、ウォルフ・ヒルシュホーン症候群(Wolf-Hirschhorn Syndrome)です。

これは生まれつきの病気で、発達障害をもたらすものです。

しかし、だからといって、フィオナのことをかわいそうだとか、天使のようだとか、その他のステレオタイプがもたらす言葉で形容することはできません。

このプレゼンは、珍しい少女を育てる、美しく、複雑で、喜びに満ちた、困難な旅路を語っています。

ラニエは、何が人生をよいもの、悪いものにするか、という人々の思い込みに疑問を投じます。

普通でないことを解決しようと決めつけるのをやめ、そのまま受け入れるべきだと。

収録は2017年の10月。動画の長さは13分35秒です。

日本語字幕はありません。英語字幕と、あといくつかの言語の字幕があります。

動画のあとに抄訳を書きます。英語は、はっきりしていて聞き取りやすいです。

☆トランスクリプトはこちら⇒Heather Lanier: “Good” and “bad” are incomplete stories we tell ourselves | TED Talk | TED.com

☆TEDの説明はこちら⇒TEDの記事のまとめ(1)ミニマリスト的生き方の参考に

いいか悪いか、簡単には決められない

馬をなくした農夫が出てくる古い寓話があります。

近所の人たちは農夫のところにやってきて、「残念だったね」と言いました。

農夫はこう答えました。「いいか、悪いかは何とも言えないよ(Good or bad, hard to say)」。

数日後、馬は野生の馬7匹と一緒に帰ってきました。隣人は、「それはよかったね」と言いました。

農夫は、「いいか、悪いかは何とも言えないよ」と答えました。

翌日、農夫の息子が、野生の馬の1匹に乗り、振り落とされて足を折りました。

隣人は「ああ、それは本当にひどいことだ」と言いました。農夫は「いいか、悪いかは何ともいえない」と答えました。

数日後、役人が皆のところにやってきました。兵士を取るためです。農夫の息子と足を見て、役人はそのまま通りすぎました。

隣人たちは「そりゃあ、運がよかった」と言いました。農夫は、「いいか、悪いかは何とも言えない」と答えました。

決めつけると状況をしっかり見られない

はじめてこの話を聞いたのは20年前です。それ以来、この考え方を100回は使いました。

希望の仕事につけなかった。いいか、悪いか、何とも言えない。

希望の仕事につけた。いいか、悪いか、何とも言えない。

私にとって、この話は、物事のよい面を見ることや、状況が展開するのを待つことをさとすだけではありません。

人はすぐに物事にラベル付けをし、ジャッジして決めつけてしまう、ということを教えてくれるのです。

現実はもっと流動的で、よいか悪いかは、しばしば、私達が自分に言い聞かせる不十分な物語なのです。

私にとって、農夫の話は、いいか悪いか決めつけてしまうと、できごとをありのままに見れないよう、という警告です。

決めつける手をゆるめ、心を開いて、好奇心をもちながら進むことで、いろいろなことを学ぶことができました。

子どもができた時、決めつける人になってしまった

ところが、7年前、はじめての子どもを妊娠していた時、この教訓をすっかり忘れていました。

何がよいことなのか、頭から信じ込んでいたのです。

子どもを持つなら、スーパーベービーとでも呼べる、とても健康で、ひとつも欠点がなく、未来に向けて、大空を飛んでいくような赤ちゃんであるべきだと思っていました。

妊娠中、健康ですばらしい脳を持った赤ん坊が生まれるように、DHAのサプリを飲み、ほぼオーガニックフードを食べていました。

薬を使わない出産法に向けて準備しました。ほかにもいろいろやりました。

というのも、こうした準備をすれば、単に「よい赤ん坊」ではなく、「最良の赤ん坊」を産むことができると思ったからです。

娘のフィオナが生まれたときの体重は2.15キロ。医者は、フィオナがこんなに小さい理由は2つのうちのどちらかだと言いました。

「種(たね)が悪かったか、土が悪かったのだ」と。これを聞いて、自分の娘は、できそこないの植物だと思ってしまったのです。

その後、娘は、ひじょうに珍しい染色体の異常である、ウォルフ・ヒルシュホーン症候群だとわかりました。

4番染色体で足りない部分があるのです。

娘はよい赤ちゃんでした。生きていて、赤ちゃんらしいつやつやした肌をもち、素晴らしい漆黒の瞳を持っていました。

けれども、この病気の子どもは、著しい発達の遅れや障害があるのです。

人によっては歩くことも話すこともしません。私は、農夫のような平静心ではいられませんでした。

自分に起きたことは、断固として、悪いことだったのです。

少しずつ思い込みを手放した

ですが、この時こそ、農夫のたとえ話が、とても役に立ったのです。

娘の病気のことを聞いてから数週間、私は絶望に囚われ、すべては悲劇だと思っていました。ところが、現実は、もっと流動的だったのです。そして学ぶことがたくさんありました。

この謎に包まれた人間、つまり娘のことを知るにつれて、私の、「悲劇に決まっている」という固定観念はほぐれていきました。

娘はレゲエが好きで、夫がリズムにあわせて、娘の小さな身体を上下に動かすと、にやにやと笑うのです。

オニキスのようだった瞳はとても美しい湖のようなブルーに変わり、ほかの人の瞳をじっと覗き込みました。

5ヶ月になったとき、ほかの赤ちゃんのように首は座らなかったけれど、深い瞳でアイコンタクトできました。

友達の1人は、「フィオナはこれまで会った赤ちゃんの中で、一番いろんなことに気づいている子だわ」と言いました。

私は、静かで、注意深いフィオナの存在は贈り物だと感じていました。

悪いところにフォーカスするセラピストたち

ところが、フィオナをサポートするため、家にやってきた作業療法士(occupational therapist オキュペーショナルセラピスト)にとっては、フィオナは神経が劣っている子どもでした。

ある療法士は、フィオナがまだ寝返りをしないのを知って、落胆し「フィオナの神経を目覚めさせる必要がある」と言いました。

ある日、セラピストは横になっているフィオナの小さな肩をつかんでゆすり、「起きて、起きて!」といいました。

フィオナが生まれて1年目に、何人かのセラピストに来てもらいましたが、みな、自分が見つけたフィオナの悪いところにフォーカスしていました。

フィオナが右手を使って、ぬいぐるみの羊をつかむようになったのを見て、私はとてもうれしかったのですが、セラピストは、フィオナの左手にこだわっていました。

娘はあまり左手を使わず、左手の指をクロスさせているることが多かったのです。

セラピストは、「副え木を使うべきだ」と言いました。副え木をあてると、フィオナは指を使うことができないのに、少なくとも見た目はふつうに見えるからです。

固定観念を捨てる選択をした

1年目、私はいくつかのことに気づきました。

1.古いたとえ話は置いといて、娘は悪い作業療法士に当った。

2.自分は以下のどちらかを選ぶことができる

選択肢1).娘が他の子と違うところを、「悪いこと」とみて、作業療法士のいうように、違いをできるだけなくす道をとります。

セラピストは、「わからないわよ。発達障害なのか、自閉症なのか、それとも単に違うのか」と私に言いました。

この道を行くのは悲惨なことです。というのも、分子レベルで、フィオナはほかの人と同じようにデザインされていないのですから。

選択肢2).神経の違いや発達の遅れや障害を悪いことと捉えない。つまり、いろいろなことができる身体を持つ人生のほうがよりよい人生だという考え方を捨てます。

何がよい人生で、何が悪い人生を決めるのかという偏見を手放し、心を開いて、わくわくしながら、娘の人生の展開を見守ります。

1歳でようやく寝返りをした娘

ある午後、仰向けに寝ていた娘は、背中をそらせ、舌を口のはしからのぞかせ、身体をねじって、うつ伏せになりました。

それからまた、からだをよじらせ、ひっくり返って仰向けになり、またうつ伏せになりました。コーヒーテーブルの下で、5キロ400グラムの身体で、何度も寝返りをしていました。

ずっと寝返りをしているのかと思いましたが、次に、黒い電気コードをつかもうとしているのがわかりました。

このときフィオナは1歳でした。この年令のほかの子どもは立ち上がったり、よちよち歩きしているはずです。

ある人にとっては、私の子どもの状況は悪いものに見えるでしょう。寝返りしかできない1歳の赤ん坊。

でも、そんなのくそくらえです。

娘は、新しい、しなやかに動く体験を楽しんでいたのですから。私はとてもうれしく思いました。

その午後、私が見たのは、必死に黒い電気コードを引っ張っていた子どもでした。

いいか悪いかは、何とも言えません。

決めつけるのをやめたら起きたこと

何が人生をよいものにするか、それとも悪いものにするか?

決めつけるのをやめたら、娘の人生がどんなふうに展開するのか見られるようになりました。

それは美しく、複雑で、楽しくて、難しい。別の言葉で言えば、人間の経験を表すものの1つに過ぎません。

我が家はアメリカの別の州に引っ越し、新しい作業療法士たちと出会いました。

彼らは、娘のよくないところにフォーカスしませんでした。

違っているところや直すべき問題に焦点をあてなかったのです。娘の限界は限界として受け入れ、娘の長所を見て、ありのままのフィオナを素晴らしいと思ってくれました。

この療法士たちのゴールは、フィオナはできるだけふつうにすることではなかったのす。

彼らのゴールは、フィオナができるだけ自立できるように助けること。そうすれば、フィオナは持てる力を最大限に発揮できます。それがどんなものであるにせよ。

障がい者に偏見を持つ社会

ですが、この社会では、障がい者にたいしてこんなオープンな態度はまれです。

生まれつきの違いを「先天性の異常(birth defects)」と呼びます。まるで、人間が、工場で作られる製品であるかのように。

同僚がダウン症の子どもを産んだとき、憐れむような目で見るものです。

車椅子にのっている不幸な人を描いた映画を喜んでみます。実際の車椅子の利用者にとって、こうした紋切り型の見方は、不当で迷惑なものなのに。

ときには、医療機関が、生きるに値しない生を決めることもあります。アメリア・リヴェラのケースのように。

アメリアは私の娘と同じ病気を持っています。

2012年、アメリカの有名な小児科の病院が、当初、アメリアが生きるために必要な腎臓の移植手術するのを拒否しました。

その理由は、彼らによれば、アメリアが知的障がい者(mentally retarded)だからです。障がい者の人生は悪いものだと、社会で考えられているのがよくわかる例です。

障がい者を持ち上げる人もいる

一方で、驚くほど欺瞞に満ちた見方もあります。

知的に劣った人々はよい存在だ、というものです。

彼らの存在は、私達に魔法のような何かを教えてくれる、あるいは生まれつき天使のようでいつもやさしい、というのです。

皆さんも、こんな差別的な言い方を聞いたことがあるでしょう。

ダウン症の男の子は神の特別な子供だ、とか、歩行器やコミュニケーションを取るためのサポートツールを使っている女の子は、かわいい天使だ、という言葉です。

クリスマスのころになると、娘にも似たようなことを言われます。キリスト関係の出し物で、天使の羽と輪をつけた娘を見たいと考える人がいます。

このような人たちは、人間の生の複雑さを経験していないのです。

娘も、赤ちゃんのときは、天使のように見えたこともありますが、ほかの子どもと同じようにいたずらな子に育ちました。4歳のときは、2歳の妹を後ろから押したりしたんです。

娘にも、ほかの子どもと同じように、他人をむっとさせる存在でいる権利があります。

1人の人間に対して、かわいそう、天使のよう、いい、悪い、とレッテルを貼ってしまうのは、相手の人間性を損なう仕業です。

人の生の混乱や複雑さだけでなく、権利や尊厳も奪ってしまうのです。

娘が教えてくれたこと

私の娘は私や人々に物事を教えるために存在しているわけではありませんが、実際はたくさんのことを教えてくれました。

1)体重10キロの子どもが、1日にどれだけモッツァレラチーズスティックを食べられるか。5つです。

2)何がよい人生で何が悪い人生なのか、社会でこうあるべきだと信じられていることに対して、疑ってみること。

6年前の私が、娘はコミュニケーションを取るために、ときにはiPadのアプリを使うことになるだろう、と聞いたら、悲しんだと思います。

ですが、いまは、フィオナにiPadを渡した日のことをこんなふうに覚えています。

何千もの言葉と、それぞれを示す小さなアイコンや四角が並んでいるアプリの入ったiPadです。

この時、私は、とても大きな希望を感じたのです。セラピストの何人かは、私の期待が大きすぎると言いましたが。

娘は、あんな小さなボタンを押すことはできない、と。

ですが、娘は少しずつ指を使うことを学び、ボタンを押して、自分の好きな言葉を表現できるようになりました。

レゲエやチーズ、その他の100の言葉を。大好きだけど自分の口を使って言えない言葉です。

そんなに楽しくない言葉も娘に教えました。前置詞とか。何週間か、かかりました。

こんなことも覚えています。

ダイニングテーブルに親戚たちと集まっていたとき、だしぬけにフィオナがiPadを使ってこう言いました。「トイレでうんち(poop in toilet)」と。

いいか悪いか、何とも言えないのです。私の子どもは人間です。それだけなのです。

そして、それは大きな意味があります。

//// 抄訳ここまで ////

単語の意味

congenital (病気・障害などが)生まれつきの、先天的な

ableist  身障者を差別する(人)

trope  言葉のあや、比喩

insinuation ほのめかし

決めつけるクセを手放すススメ

きょう、この動画を紹介したのは、子育てや、障がい者と社会に関して書きたかったからではありません。

人間はできごとに対して、「よいこと」「悪いこと」といとも簡単にレッテルを貼ってしまう傾向があり、そのせいで、他人をジャッジしたり、自分を苦しめている、と言いたかったのです。

人は、何ごとも単純化するのが好きなのです。

そうしなければ、脳に負担がかかるからだと思います。しかし、現実はそんなに単純ではありませんし、何事にも両面があります。いいと思えたことでも、悪いことに変わったり、その逆になったりします。

最近、よく相談事のメールをいただきますが、悩んでいる人は、例外なく、何かを悪いことと決めつけ、かつそこにフォーカスしています。

ほかの可能性を見ていないのです。

たとえば、先日、貯金もしたいがブルーレイレコーダーも買いたい、という相談をいただきました⇒すぐに物が欲しくなる私。どうしたら物欲がなくなりますか?←質問の回答。

貯金をしたいと強く願っているのに、それと同じくらい、ブルーレイレコーダーや食器棚、その他のものを欲しいと思ってしまうのはなぜか? しかもなぜそれが深い悩みになるのか?

それらの物がないと、自分の人生は悪くなってしまう。これらは、幸せな人生に足りないものなのだ、という強い思い込みがあるからではないでしょうか?

ですが、ヘザーさんが言うように、現実をそんなふうに決めつけてしまうのはよくありません。

ヘザーさんは、reality is much more fluid (現実はもっと流動的だ)という言葉を使っていました。その時点で、すべてを悪いと決め込むことなどできないわけです。

「いいか、悪いか、そんなに簡単に決められない」という態度を持てば、ガチガチの思い込みを手放すことができます。

こうあるべきだ、こうすべきだと思うとき、物が欲しいと思うとき、起きたことを解釈するとき、人のことをジャッジするとき、すべてに使えます。

焦点をあてている先をちょっと変えればいいのです。そうすれば、悩みに囚われて身動きできない状態から抜け出せるし、もっと柔軟な対応ができます。

*****

最近、寝返りを打たない子どもに寝返りの練習をさせるママがいます。

「子どもは生後◯◯ヶ月で寝返りを打つべきである」という強い思い込みのせいです。小さなときぐらい自由にさせてあげたらいいのに、と思います。

かく言う私も、幼い娘に強いたことがあったなあ、とヘザーさんの動画を見て思い出しました。

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カナダ在住の60代。ミニマリストです。

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