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読書が趣味の人は、読み終わった本がたまってしまいますね。
私もその傾向がおおいにありました。
あまりにも本が増えすぎたので、断捨離を開始。何度か片付けを繰り返すうちに、「いま読んでいる本」「本当に読んでいる本」だけが入っている本箱に近づきつつあります。
この状態にするまでに、愛読書、つまり大好きな本や愛着のある本を捨てる過程がありました。
本と書類を捨てる日々
引越し前に片付けをがんばり、かなりのものを削ぎ落とした筆子。
引越し後の日々の片付けのターゲットは、本⇒お菓子作りの道具⇒書類⇒また本⇒またお菓子作りの道具…というサイクルを繰り返すようになりました。
とくにがんばって捨てていたのは本です。
引っ越し先に持ってきた「愛読書」もばしばし捨てていきました。
以前、断捨離してもこれは捨てない、とブログに書いた「すてきなあなたに」という本も4巻のうち、2~4巻の3冊を捨てました。
「すてきなあなたに」について⇒何でも捨てる私が暮しの手帖社の『すてきなあなたに』は断捨離せずに持っているわけ
愛読書の「すてきなあなたに」を捨てた理由
捨てた理由はごく簡単です。
自分で「読み終わった本は捨てる」「半年さわらなかった本は捨てる」というルールを作ったから。
私の本を捨てるルール:
自分ではこの本を愛読書だと思っていたのですが、そのわりには全然手にとっていませんでした。
まだ1巻は持っています。1巻は「読んでいる」というよりも、ときどき英作文の練習に使っているからです。
たとえば、「おふろ場からきこえてくる、コトン、コトンという木の手桶の音は、ひびきがやわらかくていいものです」とか、「白い花って、こんなにも花やかでさわやかなものだったのかしら、とおどろきました」なんて文を英訳してみるわけです。
これがなかなか難しい。大橋鎭子の文章は、いかにも日本語的なので大変勉強になります。
べつに正解を出すことが重要なのではなく、考えてみるところにポイントがあります。
この意図で使う場合、本は1冊で充分なので、残りの3冊は捨てました。
捨てる前に、2巻から少し読んでみました。すっかり中身を忘れており、なかなかおもしろかったです。
どれも読めばおもしろいのです。本や雑誌はみんなそうですよね。
「読めばそれなりにおもしろい。だが過去半年間、1度も読んでいない。読まなくても生きてこれた」。
そんな本がまだまだ本箱にたくさんありました。
そこで、「読まないと自分の暮らしにさしつかえるほど大事な本」だけを残すことにしました。
その本がおもしろいかどうかを決めるのは、本の力というより、自分の感性や思考だと思います。
気持ちに余裕があれば、どんな本からも学ぶことはあるし、楽しみを引き出すことができます。
まあ、中には自分に合わない本もありますが。
読まない本を大事に取っておくよりも、自分の体調や気持ちを整えておくほうが大事。そのために、不用品を捨ててスッキリさせたい、と思っていました。
持っているのがくせになっているだけ
「スヌーピーのケーキ屋さん」という薄いレシピ本も捨てました。この本は、1980年代(だったと思う)に、スヌーピーのケーキタウンという名前で、さまざまな製菓道具が発売されたとき、一緒に出た小さな本です。
A5サイズぐらいで、イラスト満載。対象年齢は中高生という雰囲気でした。
レシピはそんなにたくさんなく、10個もなかったと思います。値段も200円ぐらい。
この本というより小冊子をなんとなくいつまでも持っていました。その理由は「かわいいから」。
本にあったレシピから、クリスタルなクッキー、というのを作ってみたことがあります。砂糖を散らして、きらきらさせます。ほかのレシピは使ったことがありません。
「クリスタルクッキー、また、作ることがあるかもしれないし」なんて思っていましたが、ふつうのクッキーに砂糖をふりかければいいだけなので、レシピなんて不用です。
私の本箱には、こんなふうに、なんとなく執着していた本が眠っていました。
自分ではすごく大事にしていると思っていたけれど、実のところ、これまでの流れで、なんとなく執着していただけなのです。
つまり、捨てる選択をしてこなかっただけ。
この「なんとなく執着している」「くせになっているだけ」という点を見直したら、愛読書だと思っていた本もかなり捨てられました。
愛読書ではなく、「くせで持っているだけの本」だったのです。
「持っているのがくせになっていた本」を探してみたら、奥さまは魔女の本や、マドモアゼルいくこの本など、「これはみんな大事だから捨てられない」と思っていた本もわりとあっさり捨てることができました。
捨てたあと、何の後悔もありません。
思い出は心の中に残っていますから。
ときどき環境を見直すと捨てられる
持っているのがくせになっている本は、周囲の変化を反映していない本といえます。
アップデートしていないオペレーティングシステムのようなものです。
昔は、よく読み、大事だと思っていて、自分の人生にそれなりの価値を与えてくれていた本や、役割や居場所を持っていた本たち。そういう本も、時の流れとともに、役割を失うことがあります。
読み終わった本がたくさんあって、本箱を圧迫しているのなら、その本と出会ってから、これまでに、自分や周囲の状況がどんなふうに変わっていったのか考えてみるといいでしょう。
私の場合でいえば、こんな変化がありました。
1)日本語の文章に簡単にアクセスできるようになった
インターネットやEリーダーのおかげで、以前は読めなかった日本語の新聞、雑誌、本を手軽に読めるようになりました。
私がカナダに来たのは1996年の春です。
当時は、日本語の文章を読みたかったら、街の図書館にいって、そこにある本(品揃えはバラバラ)を読むか、大学の人文科学の図書館に行って、日本の新聞か文学全集のようなものを読む、という選択肢しかありませんでした。
市立図書館の児童書のコーナーに、阿川佐和子の「おいしいおしゃべり」という文庫本があったのをよく覚えています。
表紙が和田誠のイラストなので、絵本か何かと思われていたのでしょう。
いまは、ネットのおかげで、いやというほど日本語の文章を読めますし、本もKindleにどんどんダウンロードできます。
日本語の本を所有する必要がなくなったのです。
2)お菓子を作らなくなった
お菓子を作るのをやめたので、レシピ本を持つ必要がなくなりました。
多いときは、お菓子のレシピ本だけで50冊近く所有していたことがあります。2010年ごろです。
レシピ本はけっこう場所を取るし、見ていれば、甘いものを食べたくなってきます。
50冊をまず半分の25冊に、次はその半分の12冊に、というように目標を決めて、レシピ本をどんどん捨てていきました。
いまは1冊も持っていません⇒料理本を断捨離(全捨て)した。いくらレシピがあっても料理上手にはなれない
3)自分でも文章を書くようになった
これまでは読む一方だった私ですが、子どもが幼稚園に入る直前の2003年の8月の終わりにブログを作って、自分でも文章を書くようになりました。
内容のよしあしはともかく、自分の考えていることを文章に書いていると、頭の整理ができるし、いろいろなことを思いつきます。
書くという作業は、読むのと同じぐらいおもしろいのです。
何らかの事情で、手元に1冊も本がなかったとしても、自分で書いたものを読んでおけばいいのかもしれない、と思うようになりました。
以上のような状況の変化が、本への執着を見直すきっかけを与えてくれました。
その後は、自分なりに本の捨て方を考えたり、捨てるプロジェクトや、本を買わない挑戦をしたりして、さらに数を減らしていきました。
古いオペレーティングシステムのままでいると、最新のプログラムが動かず、自由にパソコンを扱うことができません。
本箱の中身も、古いままだと、自分は成長できないのではないでしょうか?
ミニマリストへの道を最初から読む方はこちらから⇒何度も失敗したけど、今も前を見て進んでいます~「ミニマリストへの道」のまとめ(1)
この続きはこちら⇒衝動買いしたお菓子作りグッズを断捨離し、買わないルールを考えた日:ミニマリストへの道(108)
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体験から、「これは愛読書だから捨てられない」「これは大事な本」というのは、多くの場合、強い思い込みだとわかりました。
人は自分で自分を縛り付けているのではないでしょうか?